あゆみ
鶴川商店街の原点~写真に見る、あの頃の希望
“鶴川”の名
小さな山と谷が連なる起伏に富んだ鶴川周辺は、
四季折々の豊かな表情が楽しめる自然に恵まれた地域です。
“鶴川”という地名は、明治22年の市町村制施行以来、昭和33年に町田市制が敷かれるまでの村名で、
小野路、野津田、大蔵、真光寺、広袴、能ヶ谷、金井三輪の8つの地域の総称だったそうです。
鶴川団地に“鶴川”という名が使われたのもそのためで、
鶴川街道、鶴川駅など、“鶴川”の文字は、今もさまざまなところに残っています。
セントラル商店街は、昭和44年10月、
日本住宅公団鶴川団地の中心に位置する
ショッピングセンターとして誕生しました。
当時、鶴川団地は人口21,000の新団地で、
全棟完成時には、総世帯数8,000戸・
25,000~30,000人の消費人口を抱える大団地となる、
まさに飛躍的な発展が期待された団地の街でした。
その中に設置された町田市鶴川団地中央商店街は、
当初“セントラルストアー”という仮称で呼ばれ、
その地域に暮らす人々に生活必需品を
提供する役割を担った商業的拠点として、
その第一歩を踏み出したのです。

鶴川団地中央商店街、誕生

絵画に見る、
鶴川周辺の今昔

1975年当時の鶴川周辺の風景を描いていた志保沢良次さんの絵(蕎麦処「藤田」さんより提供)が、時の移り変わりを教えてくれます。
現在の風景と見比べてみると、昔の面影を残している場所は、今もそこここに見られるはずです。
絵を手がかりに、懐かしい風景を探してみるのも、小さな旅の楽しみが味わえて、
一興かもしれません。
慶松幼稚園


雪の慶松幼稚園。当時、園内に置かれていたトロリー電車。現在は、都電が展示されている。
とうふ 皆川


鶴川団地2丁目団地の桜の風景。街並みは昔の佇まいを残しているが、
この立派な桜の大木は、今はもうない。




謎の航空写真


大蔵山 安全寺 周辺全景(昭和22年12月25日撮影)写真中央の矢印が示しているのが、
安全寺(矢印は後から添付したもの)。
現在の地図と比べてみると、この鶴川周辺がどのように変化したかがよくわかる。
写真提供:曹洞宗 安全寺昭和20年頃の鶴川周辺の様子を空から写した、この航空写真は、
鶴川団地セントラル商店街から程近い大蔵町にある“安全寺”の本堂改築の際に見つかったものです。
お寺の関係者の方から伺った話では、先々代の住職が軍(!?)に頼んで撮影してもらったものだとか。
現物は一畳ほどの大きさの紙焼きで、確かに、写真をよく見ると、
かなりの精度で撮影されたものだというのがわかります。
当時の混乱した状況下で、上空からお寺を撮影するのに民間機を飛ばすこと自体、考えにくいですし、
写真から判断して、撮影された高度も、かなり上空と思われます。
この当時に撮られた航空写真というのを図書館で調べても、ほとんど見つからないことを考え合わせると、軍によって撮影されたという話もぐっと真実味を帯びてきます。
第二次大戦中、安全寺は東京・鈴が森の小学生たちの疎開先になっていたそうで、
その後、戦争が激しくなると、軍隊の訓練所として使用されるようになり、
疎開していた小学生たちは、近くの慶松寺(鶴川)と萬松寺(小野寺)に分散して
預かってもらうことになったそうです。そうした環境から考えると、
航空写真が軍によって撮影されたものだということも納得できます。
ただ、一体なぜ、安全寺上空から航空写真を撮る必要があったのか、その理由はまったく不明。
当時の事情を知る方が存命でないことから、すべては謎のままです。
ただ写真だけが残され、このような形で甦ったわけです。
実は、本サイトに、この航空写真を掲載することになったきっかけも、ちょっとした偶然から。
セントラル商店街元会長の中村氏が、趣味のカメラを手に鶴川周辺の風景を撮り歩いていた時に、
たまたま安全寺を通りかかり、周辺地域の古い時代のことを尋ねたことから、
“実はこんな写真が”という話になったそうです。
これも、何やら“縁”というものを感じさせるエピソード。
古が、今に何かを語りかけようとしているのかもしれませんね。
